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クリス智子 クリス智子
クリス智子

退屈の美

CHRIS TOMOKO

退屈の美

CHRIS TOMOKO

 鎌倉から都内へ向かう電車内、反対側の席に80代と思われるご婦人の姿が目にとまった。スーツケースと両手がふさがるほどの荷物を隣に置き、日焼け防止のサンバイザーと手袋もそのままに、ひとり、じっと座っていらした。ふと母方の祖母のことが脳裏をよぎる。祖母は3年半前に他界、コロナ禍でお葬式にも参列できなかったせいか、この世から身体の輪郭がなくなったという実感が未だない。生きていれば103歳。そのご婦人に祖母の面影があったわけでもないのに、背中を丸くして微動だにしない様子と静謐な空気に「おばあちゃん」を感じた。手元のスーツケースには、人生の経験や思い出が目一杯入っているのだろうか。そんな朝の一瞬に、私の横にあるいつもの重たいカバンからも、たくさんの祖父母との思い出が軽やかに次々と出てきた。

 父方の祖父母はフィラデルフィア、母方は宮崎、私はどちらの祖父母のことも、グランパ、グランマと呼んでいた。ハワイで生まれたあと、宮崎に初めて行った2歳半の頃、発する言葉が英語だったので、孫と次にまた会うときには英語で会話をしたいとばかりに、英語の勉強を始めてくれたそうだ。翌年、再会した時には、私たち家族は京都に住み始めていたので、グランパ・グランマの片言の英語に私は京都弁で返し、拍子抜けして笑ったそうだ。その時、2歳半にして私は初ひとり旅。母が空港まで送り、フライドアテンドさんに手を引かれ、ご機嫌に宮崎空港までのフライト。その話を聞くたびに、自分の息子を、と想像すると、なかなかできない気がするのだが、そういう時代に育ったことも、また自分を作っていると感じる節がある。小学校の頃は、両親も共働きだったため、四つ下の妹の手を引いて飛行機に乗り、毎年夏休み間の1ヶ月ほど、宮崎の祖父母の家で暮らした。宿題も読書感想文も自由研究も終わり、霧島山を遠くに見ながら手前に広がる田んぼの畦道を通り、何か面白いものはないかなぁ、と暇を持てあましていた。太陽はなかなか動かず、振り子時計は同じ音を繰り返すばかりで、今思えば、あれが退屈を知る、いい機会だったのかもしれない。夏休みだけ遊ぶ隣の家の友達の家で、ジャッキー・チェンの「酔拳」を一夏に40回以上見たのも、この頃だ。それにしても断片的に覚えていることはあっても、どんな風に祖父母と過ごしていたのか、あたたかい中にすべてがぼんやりと靄がかっているのが不思議だ。鮮明なのは、小さい頃一緒に入ったお風呂場の壁で、鮮やかな明るい空の色をしていた。

 高校になると、部活にアルバイト、受験と忙しくなり、大学に入ったら入ったらで、自分の世界がぐんぐんと広がるにつれ、帰省する機会は減っていったが、手紙のやりとりは続けていた。ファックス、ましてやメールの時代になると、世の中から置いていかれた気分にならないように、と思いながら、私は手紙を書いた。今年に入って、何を探していたんだったか、家の棚の奥にしまってある手紙の箱を久しぶりに開けると、たくさんの祖父母からの手紙が出てきた。懐かしい文字「智子殿」。一通を開くと、それは私が成人した時に届いた手紙で、幼少期から大切にされてきたことを改めて二人の文字に読み、また晩年の字と比べると、まだまだしっかりした筆致に、少しずつ身体が変わっていっていたことを、思いやれていなかったことに、いまさらながら少し胸が痛んた。グランパが先に逝き、その後94歳まで一人暮らしをしていたグランマは、ずっと鼻歌を歌いながら、台所に立っていた。いつしか、お風呂場の明るい水色の壁は、ところどころペンキが剥がれ落ち、白い部分が増え、要はボロボロになってしまったのだけれど、私には、白は雲、空の上の景色に見えた。グランパたちが、いま見ている景色に近いのかもしれないと。

 何かの体験をしたら、その前や体験時よりずっと、反芻することによって、自分の一部になっていくのではないかと思う。日頃、前へ前へと進む時の中に生きていると、思い出に浸るという時間がどうも欠けてしまう。でも、生活のゆとりってなんだろう。手元のスマホの世界は忙しく流れる。時間はつくるものなのか、スマホを置いて時間ができたとして、そこでも何か急いでしまうのか。時間は、自分の心の中では、いかようにもなる。あの日の退屈を少し羨ましく思う自分が、ご婦人の反対側の席に座っていた。

 

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