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クリス智子 クリス智子
クリス智子

噴水は大丈夫です。

CHRIS TOMOKO

噴水は大丈夫です。

CHRIS TOMOKO

 犬2匹と都内で生活していた頃、同じ町内の1丁目、3丁目、4丁目と移り住んだことがあった。ほどよく駅から離れていて、ほどよく坂がある町。どのマンションの部屋も気に入っていたが、3つ目の4丁目のマンションは、引越の多い私にしては、4年弱と比較的長めに住んだ部屋となった。なにゆえ同じ町内でお引っ越しを?と思われるかもしれないが、犬の散歩中、家や物件好きの私は、ゆっくり歩くペースでの町探訪が楽しみで、たまに基本ルートを逸れると「お、ここ住みやすそう」とピンと来て検索→賃貸空き有→翌日は、極力さりげなく、散歩という名の物件チェックといった流れに乗るときがあった。(住むところは諸条件より、歩いて探す派)その日は、たまたま住人の方2人が犬を連れてマンションの入り口に座っていて、犬同士の近寄りから会話がはじまり、さりげなかったはずの私は、そのまま相談。8年間そこに住んでいるというお二人の太鼓判もあり、引っ越した。ちなみに、互いの住む場所が変わって15年ほど経つが、今もたまにSNSで連絡を取り合う。 

 私が入居した1階奥の部屋には小さな庭があった。誰の目にも触れることのないプライベートな裏庭。それまで、3階目安で物件を選ぶことが多かった私は、思わぬ「庭付き」物件に夢の庭を思いめぐらせた。5月の薔薇は素敵だろうな、鳥がくる実のなる木はどうだろう、夏はゴーヤのグリーンカーテンも涼しいみたいだし、芝生にしたら犬たちはいつでもゴロゴロできるのではないか、などなど。できそうなことは少しずつやってみたものの、いまいち思うようにいかないので、ある時、プロに相談することにした。打ち合わせの際、私の頭の中に咲く花々や広がる庭のイメージ&失敗したダメージを伝えつつ、基本的にはプロに任せたいとして、先方のプランを待つこと2週間。届いたA,B,C3案を楽しみに開いた私は、ついでに目も見開いた。大まかな要望は「あまり人工的な感じではなく、〇〇風でもなく、自然に自由に花と緑がある感じの庭」だったが、1案のみならず3案ともに立派な噴水がど真ん中に配置されていたのだ。いったい私のどの言葉が、噴水というカタチに変換されたのか、水が湧くより、興味が湧いたが、この噴水推しのプレッシャーをどうしたらよいものか、戸惑った。A案の噴水はいわゆる小さな銅像付き、B案はまぁまぁエレガント、C案は、なんとなくモダン、たしかそんな違いだった。

 日比谷公園の噴水は好きだ。イタリアのトレビの泉も行ったことはないが、きっと素敵だろう。水が動いている様子を見るのは飽きないし落ち着くから、案外いいのか?と気持ちの中で譲歩しかけながら、いやいやいや、小さな庭のかなりの場所をとってしまうのと、インパクトがありすぎる。遊びにきた人に「噴水好きなんだね」と言われても(また内心思われても)うまく笑えそうにないし、「もともとあったんだ」と嘘をつくことになったら、いつか自分を嫌いになりそうだ。そもそも、賃貸物件だ。次の部屋を探すときに「ペット可」に加えて「噴水可」なんて、ハードルが高すぎる。その後、再考プランを頂いた。いずれの案からも噴水は消えていたが、私はイメージを言葉にする力をさらに失いつつあり、好みの違いもあるかと思い、庭づくりの話も静かに消すことにした。それ以来、庭に目をやると、時折、うっすら噴水が見えるという、軽い後遺症だけが残った。(A案の像)

 今にして思えば、30代半ば、特にいろんな人と一緒に過ごした思い出がある部屋で、そういう思い出が優しく心の中に湧いてくるという点では、部屋自体が、今のわたしにとって、見えないすてきな噴水だ。そんな噴水未遂事件の傷も癒えた今日この頃、いま住む家の庭には、池が誕生しようとしているのであった!つづく。

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